合気道上達の稽古・修業の次元が顕界⇒幽界⇒神界と変わっていく。目に見えるものを重視し、肉体主動の魄の世界の顕界から、目に見えないものを重視し、息・気主動の幽界、そして魂が働く神界へと変わっていくのである。大先生のは、顕界は現実の世界、幽界は仏の世界、神界は神の世界といわれる。
合気道の修業で顕界、幽界、神界があり、その次元での稽古があるのだから、合気道の外の世界、つまり日常生活にあっても顕幽神界を楽しんでもいいし、楽しむべきだと考えている。
顕界・現界は誰でも楽しんでいるから問題ないようだが、よく見ると、実際にはいろいろな問題があって、顕界を本当に楽しんでいるようには思えない。私の目から見れば、その原因の重要な部分が、幽界と神界を知らない、無視する、興味がない事にあるように思える。目に見えるものだけを信じ、価値を置いているのである。その好例が、スマホを手放せないである。
これは合気道の稽古をしていて、顕界で魄の稽古をしている後輩と同じである。魄の稽古で十分だ、幽界や神界の稽古などどうでもいいとは思っていても、魄の稽古の次元では無意識でどこか満足しておらず、何とかしたいと思っているようなものである。
幽界や神界に遊ぶとはどういうことかというと、目に見えない世界・次元を楽しむということである。心で遊ぶということである。心であるから自由である。時間も空間も関係なくなる。顕界、幽界、神界も過去、現在、未来も自由自在に飛び回れる。仏様にも神様にも会えるし、大先生や有川先生やその他の亡くなられた先生方、更に、武将や武術の名人・達人たちにも会える。古代人だって会える。勿論、亡くなった両親や祖母や女房にも会える。
会えば、対話となる。お願いしたり、助言を受けたり、励まされたり、お叱りを受けたりする。
禊や道場での相対稽古でも、大先生や吉祥丸道主や有川先生ならこんな事をしていれば怒られるだろうとか気を引き締めたり、こんな場合はどうすればいいのか心で問うてみたりと対話をしているのも幽界で遊んでいることになるだろう。
幽界・神界で遊びやすいのは、幽界と顕界の狭間にある時で、次のような状態にある場合であるようだ。
◎朝の目覚めから起床の間 ◎禊と禊ぎのプログラムと次のプログラムの間 ◎技をつかっている時 ◎ボーとしている時 ◎本を読んでいる時 ◎テレビなどボーと見ている時 ◎歩いている時 等々
であったが、最近ではいつでも幽界・神界に遊べるようになったようだ。道端を歩いていて花が咲いていれば挨拶してその美しさを愛でてやるようになった。
また、毎夕、姿を見せたゴキブリとも、今日も元気かと挨拶するようになった。もう二年ほどの付き合いになるので、二三日姿を見せないと、死んだのではないかと心配した。しかし、ゴキブリ君は数日前から羽や体に張りが無くなり弱ってきていたが、最後の晩に、洗面所の床で亡くなった。私に別れを告げるかのように、私が洗面する場所と時間に合わせて姿を現わし、私に見て貰いたいかのようにして息を引き取っていたのである。翌朝、お経を唱え、お別れをし、窓の外の林に投げ込んだ。土に帰ってくれるよう、森林葬にした。二年間の付き合いだったが、亡くなると寂しいものである。身内が亡くなるのとあまり変わりがない。生き物は人も動植物も幽界では、上下なく同じという事を実感する。
これも最近の心に残る幽界での遊びである。これからますます幽界、そして神界で遊ぼうと思っている。