自分が高齢になり、周りの高齢者を見ていると或る傾向があり、それが年を加速しているということである。それを高齢者病と言っていいだろう。
多くの人は年を取ると感動しなくなる。笑わなくなり暗くなる。子供たちのような光がなくなる。音楽を聴いても絵画を見ても感動しなくなるし、その為か音楽を聞いたり、絵画を見ようとしなくなるのだろう。勿論、そうでない高齢者、高齢者病に掛かっていない高齢者も沢山いる。
しかし、高齢者であっても、誰でも感動したいと思って頑張ろうとしているはずである。例えば、孫に会う事。お仲間と旅行に行ったり、お茶をする。犬や猫を飼い、家族同様、人間のように接し、感動している事などである。
合気道の稽古仲間を見ていると、やはりその高齢者病があるように思える。
まず、私は60年以上道場に通って稽古をしているが、当初からの先輩や同輩がほとんど稽古に来ていない事である。稽古を辞めてしまう最大の理由は感動が無くなったことだと考える。入門当社は誰でも感動する。受け身が取れた感動、技が出来た感動、技が決まった感動、先輩の受けが取れた感動、厳しい一時間の稽古をやり遂げた感動、新たな発見があった感動等々である。
感動して稽古している間は顔も輝き、嬉しそう、楽しそうにしているが、稽古を続け、そして年を重ねてくると、段々と感動がなくなり高齢者病になり、稽古を去るとなると見ている。
合気道でこの高齢者病にならないためにどうすればよいかは明白である。感動することである。己が感動するような稽古をすることである。感動することはそう難しくないと思う。新しい技の法則を見つけ、その法則の技を身に着けていけばいい。毎回、紙一重の上達だが、人はそれで感動できる。この本質的な感動は自分が変わった、進化したという事から来ると思う。最大の感動は自分の成長のはずだからである。物を貰ったときにも感動があるだろうが、全然異質で異次元の本質的な感動である。
感動を続けているとその感動は何モノかによると思うようになるはずである。自分の考えや自分の力ではなく、別の何モノかが与えてくれるということである。後で分かってくるのだが、宇宙(宇宙の営み、宇宙の意志)、神(一元の神、八百万の神)等である。もう一人の自分を通して自分に伝えられるわけである。
従って、感動を続けるためにも自分を感動させてくれた何モノかに感謝をしなければならないだろう。感動したら感謝、感動したら感謝となるわけである。感動したら「ありがとう」「ありがとうございました」と云えばいい。
この自分が変わる感動を享受するようになれば合気道の稽古を止めることができないはずである。
更に感動と感謝で高齢者の稽古を続ける事ができれば、一般社会での日常生活においても感動と感謝となるはずである。高齢者病から脱却できるはずである。一日でも長く稽古をし、生きたいと思う事になる。