【第940回】 ようやく武道としての合気道に

80歳を過ぎてようやく武道としての合気道をやっているのが実感出来るようになった。力いっぱい、思いっきり技を掛け体をつかう稽古ができることである。相手にも好きなように力一杯打たせたり、掴ませるのである。
これまでは相手に力いっぱい打ち込まれたり掴まれると動けなくなったり、動けなくなり技にならなかった。また、こちらが思いっきり打ったり掴めば相手は動けなくなるから思いっ切り出来なかった。こちらが力一杯やれば相手もそれに供応して力を入れてくるので、どうしても力をセーブしたり遠慮してしまったのである。今は自分も力一杯打ったり、掴むが、相手に合わせて調整することができるようになったのである。

今になってわかったわけであるが、力を出し切れず、力をセーブしていたのは、簡単に言えば、実力不足だったということである。力不足だったということである。
力一杯できるようになったのは実力がついてきたためである。これまでの稽古の積み重ねでようやく力がついたのである。やるべき事をやってきた結果である。大先生の教えを少しずつ身につけてきた結果であると考える。これまで60年稽古をしてきた結果が形に現われてきたということだろう。

しかし、急に武道の感覚で稽古ができるようになったのには、最近会得した大先生の教えにあると考えている。その教えが身に着いたお陰で力いっぱいの稽古、武道としての合気道、武道の合気道であると実感する稽古になったのである。
その教えは剛柔流である。身体を剛柔流につかえるようにしたことである。身体を骨主体の剛、肉・筋肉主体の柔、骨と肉の上に出る気の流でつかい、技を掛けるのである。手には力いっぱい入れ、手を伸ばし拡げ、鉄棒のような手にする。これをイクムスビの息づかいでやるのである。これで幾ら力を入れてもいいし、遠慮する必要はなくなったのである。
手が鉄棒のように頑強になると、不思議と気が出る。ふにゃふにゃの手や折れ曲がる手では気は出ない。過って教えて頂いた有川定輝先生の強靭な手が思い出される。先生に少しでも近づきたいと思うのである。

身も心も息も精一杯出してつかうと、武道をやっているという気持ちになる。相手に思い切り打たれても掴まれても返せたり、制することができるし、こちらの力いっぱいの打ちや掴みで相手を傷つけたり痛めることはない。手先ではなく腰腹で技を掛けているし、気で相手と結び、相手と一体化、つまり相手と自分が一人となるからである。自分を痛めたり、傷つける馬鹿はいないだろう。
これから力一杯の稽古をし、武道としての合気道を楽しんでいこうと思っている。